瓢箪鯰的な男の雑記帳

心にうつりゆくよしなしごとを そこはかとなく書きつくる そんな雑記帳

体系としての経済学と方法論としての統計学①

第6問:物理学は公理化できるか(『ヒルベルト23の問題』)
困難は分割せよ(ルネ・デカルト

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Twitter上で何気ないやりとりから、学生時代にこんな本を読んだのを思い出したので
ちょっとAmazonでぽちって読み直している。

『統計学と経済学のあいだ』(竹内啓著)
途中ではあるのだが、色々考えさせられたので取り留めもなく筆を執ってみた。

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 経済学は「社会科学の女王」と言われることがあるのだがその理由としては、「科学的方法」をそのままトレースしていることが挙げられるだろう。
科学的方法で重要な考え方の一つとして、複雑な現実をいくつかの要素に還元していくという「要素論」が挙げられる。ニュートンは「運動の法則」を「取りあえず無批判」に受け入れることで、地球上の物体の動きや惑星の動きなどを明らかにしたし、アインシュタイン光速度不変の原則を受け入れることで、特殊相対論の理論体系を構築している。経済学においてもこのような要素として、「ホモ・エコノミクス」という概念に到達した。
経済学がこの「ホモ・エコノミクス」が非人間であるであるとか、そのような合理的な人間はいないという誹りを受けることが多い。このような非難に対しては真摯に受け止めなくてはならない部分もあるが、だからといって「ホモ・エコノミクス」からなる理論体系を全て捨ててしまうというのには、どうしても賛成できない。科学的な分析にに則るならば、どうしても森羅万象をいくつか切り捨てて、簡略された(その理論体系では一旦は無批判に受け入れなくてはならない)抽象概念から出発せねばならないからである。
ユークリッド幾何学が5つの基本的な公準から初等幾何学の伽藍を作っているように、ニュートン物理学もいくつかの諸原理、ワルラス流の経済学も「ホモ・エコノミクス」というある種の原理から出発しているのである。
理論展開の形式を見れば、数学も物理学も経済学も同じ形式をとっていることは強調しておきたい。

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 理論体系の価値は、どれだけ現実世界をその理論で表せるかで決まることは、それほど多くの批判はないと思われる。
最も自由な理論体系は数学で、ルールはそれこそ「なんでもあり」なのだから、面白い定理や役立つ結果が出てくればどのようなルールを設定しても構わない。
事実我々は時間を表すときに、「11+2=1」(11時の2時間後は1時)という体系を用いている。
 逆をいうとルールを決めるにも節操がなければならず、物理学や経済学の場合は現実の現象をある程度近似できることが要求されることは自明だろう。いくらワルラス流の線形の世界が美しいと言って、現実に対して無力であればただの数学的記号を用いた散文に過ぎなくなる。
よく経済学の実証分析を行った論文に「消費=α所得+誤差項」のような回帰式があったとして「符号条件はα>0」などという但し書きがなされていることがあるが、これは「流石に所得が大きければ消費も大きくなってもらわないと現実と合わない」という意味に他ならない。
理論と現実世界のフィッティングは、理論から演繹に弾き出された現実世界の予測値と現実世界におけるデータの実測値の差、あるいはパラメータの安定性によって測られることが多いと思われるが、ここで重要なのが「統計的なものの見方」だと考えている。

(続くかもしれない)