瓢箪鯰的な男の雑記帳

心にうつりゆくよしなしごとを そこはかとなく書きつくる そんな雑記帳

久しぶりに読んだ本のお話

「其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るのだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな。」
 ー小林秀雄『無常ということ』

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 今日はやることもなかったので、なんとなく昔読んだ本を読んでいた。

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

『無常ということ』は、たまに本棚から引っ張り出してくるお気に入りの短編である。
高校生の頃国語の教員がこれを教材として使ったのが、本書との邂逅である(よく考えたら吉田満の『戦艦大和ノ最後』を教材にするという凄まじい教員だった)。
戦艦大和ノ最期 (1974年)

戦艦大和ノ最期 (1974年)

当時は何を言っているのか書いているのかさっぱり分からず、適当に放り投げてしまったものであるが
あれから20年以上も経つと、同じ本でも違う感情を抱くようになるのが、とても不思議であり新鮮なものである。

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 小学生の頃だったか、年末のテレビで忠臣蔵を見た時に
なにゆえ大石内蔵助以下四十七人は腹を切らねばならなかったのか、良く分からなかった。
荻生徂徠と思しき人物が、後々討ち入りに行った者たちのことを慮り(忠臣蔵では当然ながら大石内蔵助に義があるように演出される)
死を賜うべきであると滔々と論じ、事態は実際にそのように展開する。

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 荻生の言い分は、もしこの四十七人を下手に生かしておいて晩節を汚すようなことがあれば、
赤穂事件の美しい物語は汚されてしまうため、ここで敢えて死を賜うことによって
そのような可能性を完全に排除するためである、というものであった。
なるほど、これであれば四十七士は永遠の義士として残り、
そして300年経た現在でも語り継がれている。荻生の狙いは当たったと言えよう。

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 四十七士が日頃どのような生活をしていたのかは、私にはあまり良く分からない。
四十七人もいれば人倫に悖るようなことをしていた連中もいるであったろうとは思うが
義から死にかけての美しい物語の中でそれらは捨象され、美しい歴史のみが残ってしまった。

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 しかしそれで良かったのである。
その美しい物語が私たちに余計な思いをさせないから。