瓢箪鯰的な男の雑記帳

心にうつりゆくよしなしごとを そこはかとなく書きつくる そんな雑記帳

体系としての経済学と方法論としての統計学②

「私は比較級や最上級のことばを用いたり、思弁的な議論をするかわりに、自分の言わんとするところを数(number)重量(weight)尺度(measure)を用いて表現する」 ウィリアム・ペティ(1623-1687)

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 社会科学(当時としてはそういう意識はなかったろうが)にデータを本格的に持ち込んできたのは、ウィリアム・ペティであることは概ねのコンセンサスを得られるところであろうと思う。
 実験が基本的に不可能な経済学は、科学的であろうとすればどうしても「統計」との間を行ったり来たりするはずであるのだが、
 「一九世紀以降、経済学と統計学の関係はお互いに不幸であったと言わざるを得ない。統計学は経済学に重要な事実資料を提起するものであろう。経済学は統計数字の変動を説明するべきであったにも関わらず、一九世紀以降一九三〇年代マクロ経済学計量経済学の成立まで、両者は殆ど関係を持つことがなかった。スミス以後の古典経済学が重商主義と結びついた政治算術学派を否定して以来、経済学が統計数字を用いることはほとんどなくなってしまった(竹内啓『経済学と統計学のあいだ』P83~84)」
 意外や意外、大恐慌あたりまではこのような形であったようである。

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 人類が自然を理解する「科学」という方法を取得したのは存外新しく、17世紀のニュートンからである。
現実の観測、観測結果を演繹的に説明できるいくつかの諸原理の発見、その諸原理から演繹的に導き出された予測結果と観測事実の突合、これら3つをまとめたのがニュートンであった。

 社会科学においても、1699年にG・キングが穀物の需要関数を原始的な方法ながら推計している(ガウスによる最小二乗法の発明は1800年頃である)。
F・ケネーは重農主義の立場から「経済表」という、今日でいうところの産業連関表の原型を作成している。
太陽系の解明にチコ・プラーエの収集した天文データが重要な役割を果たしているが
(体系はなかったとはいえ)経済学もその初期においては分析対象に対して、データからの接近が試みられていた。
『政治算術』をA・スミスが否定した理由は良く分からないが、A・スミスの道徳としての『国富論』と相容れなかった(A・スミスは『道徳感情論』も記している)ためではないかと、J・シュンペーターは後年言っている。

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 何かしらの経済的な現実を説明したい把握したいというときに、経済学者と統計学者は驚くほど違う方向からアプローチしているように思える。
前者は議論となる諸前提を仮定し現実をモデリングした上で、そこから演繹的に導き出した結論とデータが一致しているか、というアプローチを採っている。
それに比べて統計学者は、関係のありそうな変数同士を取りあえずいくつか持ち込んでみて、グラフ化したり相関係数を取るなどして(細心の注意を払ったうえで)変数間の関係はどうであるかとか、その関係性は安定的か否かであるかとか、なんとなくおぼろげなうちから探索を始めるようである。
同じ問題に対して、右からアプローチするのか左からアプローチするのか、全くもって様相が違うのである。
 このような統計学者的なアプローチは、諸問題の解決の糸口を探ったり、最終的な構造の把握に至る過程では極めて強力である。
それに対して経済学者的なアプローチは、諸問題の構造がある程度把握できた後で他の問題を解決するためには強力な方法であると思う。

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 経済学者的アプローチからすれば統計学者的なアプローチは、ある種の公理系を持たないという意味で「厳密性に欠ける」と思うであろうし
統計学者から見て経済学者的なアプローチは、データという根拠なきままにモデルを組むという点において、地に足がついていない感覚に陥るのではないかと思う。
この両者の懸隔は、どちらが優れている優れてないという話ではなく、アプローチの仕方による性質の違いであって
現実データから保証を得られない前提を持つ経済モデルは意味を為さないであろうし、
「取りあえずあるだけ」のデータは、理論的な何かを帰納的に導き出し得ないであろう。

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 このように考えていくと統計学的なアプローチは問題の構造の把握が終わってしまえばお払い箱のように思われるが
社会問題が今まで途切れたことがないし、これからも途切れないであろうであるから
統計学的アプローチそのものの研究はなされるべきであろうと思う。
今後現出する社会問題は、それ自身が経済的問題であるとか社会学的な問題であるというような名札を付けて現れてくるわけではなく、よってその問題に経済学のツールを用いることが適切かどうか分からないこともある。
このように問題がモヤモヤしてハッキリしない段階においては、やはり統計学的なアプローチは極めて有効であると言わざるを得ない。
そして統計学発達の歴史は、扱うデータの特性の変化と共にあったとも言え(時系列分析などそうであろう)、今後もクセのあるデータが出てくれば分析手法を変える必要性が生じることは言うまでもない。
そしてその積み重ねが、方法論としての統計学の発展そのものになると言える。

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 経済学者と統計学者の間にはまだ溝があると思えることもあるが(「理論なき計測問題等」)、実は問題へのアプローチの方向性が違うだけとしか思えない。
経済学者はより理論を厳密にすべく現実を説明するためにデータの助けを必要とするだろうし、統計学はデータそのものが発展の母体となるのだ。

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 そんなことを思いながら、今宵も適当にVARに変数を突っ込んで遊ぶのである。